よしだのブログ

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私なりの努力のしかた。

 
「身の丈に合った諦念」を受け入れて生きるっていうスタンスはアリかなとは思いましたし、多分、うまくいくやり方なんだとも思います。「努力をすれば報われる」なんて、私も思ってもいないので共感できる部分はありました。
 
でも、努力しても「全く」報われないということはないと思うし、努力の仕方や、努力に対する考え方があるんだと思います。
 
(これで、社会階層を逆転できる!とはつゆほども思っていません(笑)。ですが、「努力に裏切られて、自死に至る」ってことにはならないとも思っています。)
 
 

■ 向き、不向きはあると思う

 
努力はすべきだと思うのですが、人によって向き不向きがあるのは確かだと思います。例えば、私がサッカー選手を目指していたとしても、多分、大成はしなかったんじゃないかなと思います。身体能力もそうだし、環境も決して積極的に後押ししてくれる環境ではなかったと思います。もちろん結果論ですが。
 
大成している人、選手、というのは、やはり、身体能力も環境も恵まれていると思います。例えば、宮里藍さんのように、身体能力はもちろん、家庭の面では、親が積極的に後押ししていたそうで、その点も大きく影響していると思っています。また、大きな話では、女子プロゴルフで沖縄県出身者が多いのは、安くプレーできる環境があるからと言われているようです。
 
しかし、それだけでは努力を投げ出す理由にはならないと思っています。
 
 

■ 向いているものはあると信じている

 
なぜなら、何かしら、向いているものは自分にもあると信じているからです。
 
才能という言葉そのもの自体もブラックボックスです。一体、どのような能力を指して「才能」と言っているのでしょうか。目標に対して、才能は全く違うはずです。サッカー選手の才能、短距離選手の才能、ゴルフ選手の才能、同じスポーツ選手の枠内だけでも全く違う。つまり、私に何の才能があり、今後何に大成するかわかる人はいないはずだと思います。
 
とはいえ、がんばていたことが、どうしても、私には向いていないことが分かることもあるので、諦めて努力の方向を変える考えはいつでも持っています。
 
 

■ だめだったら、努力の方向を変える

 
努力が、当初の目的に対して、報われなかったとしても、得たものを元に、努力と目標の方向を変えることができると思います。努力の結果得られたものを次に活かすことはできると思います。Ichiro Wadaさんが、以下のエントリで紹介されている、バスケットボールのコーチのように。
 
 
~ おまけ ~
 
私の高校時代の友人で、小学校の教師をやっている人間から聞いた話です。
 
「勉強」は「勉めて強いる」と書くので、強制されてやっている、つらいものだというニュアンスも含んでおりあまり好きじゃないといっていました。代わりに「学習」を使うようにしていると言っています。
 
なんとなく、努力もお勉強と一緒でつらいもの、苦しい物ってイメージがついていて、成功は辛いことを克服しないと得られない、という共通幻想が日本にはあるんじゃないかって思います。